わたし

わたしは、自虐が癖なのである。

とても嫌な癖だし、治したいと何度も思っている。ふとした時に自虐をしている自分に気づき、悲しくなり、虚しくなり、情けなくなり、死にたくすらなる。

 

わたしは昔からいじられキャラだった。生まれてこのかた、記憶のあるうちは、小中高大学生と、いじられてこなかったことがない。そして、自分でも「わたしはいじられてこそ生かされているのだ」ということを自覚している。逆に言えば、いじられなければ、わたしはいてもいなくても変わらない、面白みもない、だれからも求められないような存在である、ということを自覚しているということである。この時点で自虐である。そして、自分で書いていてちょうど悲しくなってきたところである。

 

自分で言うのも何だが、ありがたいことに、わたしはかわいい、美人、頭良い、などと褒められることもたくさんある。いじられるのも、いじり側からの愛の伝わるような、そんな感じである。そしてこのいじられキャラは、母からの遺伝で、うちの家族は皆いじられキャラなのだ。

 

だが、もちろん、今までの短い人生の中で、愛のない冷たいいじりもたくさん受けてきた。意味のわからない無茶振りをされたり、人目に羞恥を晒すようないじりをしてきたり、わたしを馬鹿にしてくるような人もたくさんいた。その度わたしは、時には幼かったため泣くこともあったが、なるべく温和に交わし、平和の場を保とうとした。そういう日々を送った先に待っていたのが今の自分なのである。

 

わたしはいじられることに慣れすぎたのである。どんないじりだろうが、慣れっこなので、我慢してしまうようになった。例え、それがわたしの人格を否定するような酷いいじりでもだ。受け流す能力を身につけたのだ。だが、受け流すと言ってもそれは建前で、受け流しているように見えて心にはぐさぐさと傷が刻まれていくのである。わたしはそれを隠すのだ。誰にもバレないように、その場が平和に収まるように、わたしだけが我慢すれば、みんなは良い雰囲気でいれることができるのだ。傷つきやすい思春期の時期も、わたしは我慢し続けた。むしろこれが日常だった。そして、今でもそれはわたしにとって当たり前のように行われていることなのだ。

 

自分に自信がないわけではない。でも、自信はない。周りはわたしを褒めてくれる。だが、同時に貶してもくる。自信がつくような経験も度々ある。しかしその後に「でも自分はどうせ人より低い位置にいる」という自虐が無意識のうちに襲ってくる。わたしが「良い」と言うものは、周りに大した理由もなく否定されてきた。みんな、わたしを見下しているのだ。例え、わたしのことを嫌っていなかったとしても「あいつはいじってもOK」という考えから肥大した、わたしを見下すという行為が知らぬうちに始まっているのだ。もしかしたら、彼らは、それに気づいていないのかもしれない。だが、わたしは気づいている。

 

自意識過剰、被害妄想、そう言われるかもしれない。だが、わたしはそうとしか考えられないのである。そういうわたしを形成したのは、わたしのキャラクターもだが、わたしの周りの人たちなのである。こんな歪んだ人間になんてなりたくなかった。

 

みんな誰しも自分に完璧な自信なんてないだろうし、人から馬鹿にされることもあるだろう。わたしもみんなと同じ、変わらないのかもしれない。でも、わたしは、自分がこんな風に形成されてしまったことを周りのせいにしなければ、この先どう生きていけばいいのかわからない。それくらいに、わたしは自分を惨めだと思わずにはいられない。そしてそれは、明らかに周りの責任である。自分が面倒くさいことはもう随分前から承知の事実だ。

 

確かにいじられなければわたしはつまらない人間だとも思うから、このキャラクターを今更変えるわけにはいかないし、今までの人生全てを否定したいわけでもなくて、むしろこのキャラクターだからこそ助けられてきたこともたくさんあるのだ、というような、そんな情緒不安定に陥る毎日なのである。

 

今日も、ふと自虐をしている自分に気づき、死にたくなった。こんなわたしを、見捨てずに、誰か、重たい愛で満たしてくれないかな。「面倒なことは嫌い」と言うわたしが一番、面倒くさい人間であることは、わたしが一番よくわかっているよ。でも、どんなに虚しくなっても、辛くなっても、死にたくなっても、涙は流さない強さはやっと身につけたようだよ。

 

今になって、やっとはっきり物事をYES、NOと言えるようになり、友達の数というのは減りはしたが、信頼できる友達はできた。わたしは、いつかわたしを見下してきた人たちを見下してやる、というのを心の片隅に置いて日々生きていたりする。それがきっかけで偉人になれたら言うことはないし、でもそれを常に思ってる自分が、自分を馬鹿にする人たちから結局逃れられないのだ、というようなよくわからない思考に落ち着き、嫌になったりもする。わたしの敵は、そいつらじゃなくて、昔のわたし、昔から変われないでいるわたしそのものなのである。

 

自分にとってマイナスな部分が、長い目で見るとプラスの部分につながっている、ということを真正面から受け入れることができない。そんなわたしだから、こんなに歪んでいるのだろうか。そんな自分を、今更変えることはできるのだろうか。変わろうと思うことは、人間の成長にとって大事なことである。変わろうと思って、変わるための努力をすることに、意味がある。これは先日わたしが後輩に言った言葉である。(どこかで聞いた言葉なのかもしれないが、後輩を励ますためその場で考え自分の言葉で言ったつもりである。)

 

変わりたい自分と、変われない自分。自分の自信の持てる時と、自信の消える時。人生やり直したい、なんて多くの人が思ってる。でも終わりよければすべてよしでしょう。変わることに遅いなんてない。これは、自分への激励の文章である。